トップページ > 九州の近代土木遺産 > 九州の近代土木遺産マップ >川原隧道と石畳
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江戸時代の日田は徳川幕府の直轄地であり、物資流通の要となる場所であった。日田から南東方向に筑後川へ合流する玖珠川があり、玖珠川に沿っても往還道があった。
日田ー玖珠往還道において隧道を掘って経路を短縮し、敷石を敷設して荷車などの輸送環境を改善するために、嘉永7年(1854年)、当時の日田代官塩谷大四郎が広瀬久兵衛に命じて掘らせた。 石組防護の構造となっていて隧道の軸長方向の中間部の7m区間では石組されていない。側壁の石組はアーチで圧縮サイドになるように組まれている。大分県では江戸時代のトンネルが幾つかあるが、石組防護の構造というのは川原隧道だけである。ハの字形に2個の長さ1.5mの大きな石を上半部に組み合わせている。往還道の多くは舗装によってその姿をみることができなくなっているが、川原隧道の前後付近の道では、現在においても往還道の敷石を見ることができる。
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