いかにも公園らしい公園。その意味では“普通の”公園といっていい。一見、昨年受賞の「モエレ沼公園」とは対照的な、突出した個性のない日常的な地域公園のように見える。しかし、実際には入念に鍛え上げられた造形施設であることは訪れた瞬間に解った。豊かなスケール感、なめらかに連動する空間構成、レストハウスとせせらぎなど各施設相互の関係性も秀逸だ。個々の要素を取り出してみれば、たとえば園路のディテールやせせらぎの石組みなど、オーソドックスの域を出てはいない。だが、それらが相互に組み立てられるロジックに人間活動への確信が見える。だから風景が生きている。だから訪れる人々の表情が豊かだ。メンテナンスも入念になろうというものだと、そんな印象を持った。つまり、愛されているのである。
教育施設と連動しているコンセプトがまた生きている。障害者施設も組み込まれているが、誰もが使いやすいノーマライゼイションが公園施設のあらゆるディテールに反映されており、しかもさりげない。この公園は、ともすれば規模の大きさ、つまり「量」で評価されがちかもしれない。しかし、実は「質」がいいのである。
だから“普通の”といっても、それは使い込まれて手放せない愛着ある普段着のような、という意味であって、いずれ、様々な人々の思い出が詰めこまれた地域の日常風景に成長していくであろうと信ずる。この公園は持続していく。足腰が強いのである。
(小野寺)
地方電鉄の小さな駅で下車する。空の広い、おだやかで静かな地方小都市。歩いて「学びの森」に向かう。踏み切りを渡った角が工事中で、普通なら左折して公園に入るのだろうが、最初に目に入ってきたのが駐車場。なんということなく見える、いかにも駐車場という様相を見せない駐車場。その駐車場を抜けて、適度な領域感のある原っぱに出る。なぜこんな小都市の中心に、こんな(あることが不思議な)公園があるのか。普段なかなか目にすることのない風景に最初は少し戸惑いを感じたが、歩き回っていると、居心地の良さが増大してくる。歩き、佇んでいると、多くのことに気づきだす。大地と植栽は、とてもよくできたディテールで構成されており、単なる原っぱとは違い、丁寧にデザインされたものであることが良くわかる。適度な奥行き感、閉じつつ開いた領域感。疎密の感じが良くできた樹木群。空間性に優れたスペース。あふれるばかりの人でにぎわう都市公園は、それを目的として作られすぎて、そうではない時間とのギャップが大きく違和感を感じることが多いが、ここではそれがなく、多くの人であふれていない時間の風景が良い。こんな公園が身近にあって、気楽に訪れてひと時を楽しめる各務ヶ原の人たちがうらやましい。かつては岐阜大学の農場だと聞かされると納得もいくのだが、いやいや、なかなかこうはうまく再生できない。微地形を扱うようなデザインで、気持ちの良い風景が創出された。
(江川)
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