基調講演 「水理学−あの道・この道」 中央大学 日野幹雄先生
1.水理学の誕生と発展−特に戦後第一世代の時代の水理学
2.環境水理学の夜明けの頃
3.水理学はどこへ行くのか?
4.最近の私の仕事
水理学がどのように成立し発展してきたかということを、まず第一にお話しすることにします。次に、この部会が環境水理部会ということなので、水理学の中で環境を扱うようになったのにはどのような経緯があったのだろうか。三番目に、水理学が今後どこに行こうとしているのかについて。そして最後に、私が最近やっていることを簡単にお話しします。
日本ではまとまった水理学の教科書ができておりますし、英語で書かれたヨーロッパ系の参考書も沢山ありますので、水理学とは何かとか、どうして発展してきたのかということを、いまさら話したり考えたりはあまりしないと思います。人によっては、「学問と歴史は関係ないのではないか」とか、「私は過去を振り返らない」とおっしゃる方もおられますが、私は必ずしもそうは思っておりません。自分がどこにいるのか、これからどこへ行こうとしているのかを考えるときに、過去の足跡を振り返ってみる必要もあるのではないかと思っています。
最近、化学の竹内敬人先生が本をお書きになっています。そこで、竹内さんはこう述べています。「現在、化学では、まずはじめに原子分子の構造から解きほぐして、様々な化学変化の説明をするようになりました。しかし、これでは真の理解が得られない。この本は、1世紀以上2世紀近くに亘って我々の先達が新しい疑問に出会っては次々に問題を解決してきた足跡、つまりサイエンスを作り上げてきたプロセスが理解できるように歴史の流れに沿って書いた」と言っておられます。それと同じような考え方です。私がここでお話しするのは学問としての水理学そのものではなく、どのような過程で水理学が成立してきたのであろうかということを振り返ってみたいと思います。
水理学は本がきちんとしておりますので、若い方々はいつ頃から水理学という学問分野が確立してきたのかというようなことはお考えになったことはないのではないかと思いますが、それはそんなに古いことではないのです。ロシア出身で後にアメリカに帰化した水理エンジニアのBahkmetiffが、1912年にペテルスブルグの大学で講義をして「Open channel flow」というロシア語の本を書いています。これが、現在私たちが水理学という体系として学んでいる最初のものではないかと思います。彼は、ロシア革命の後、大使としてアメリカに渡り、レーニン政権に変わってからもそのままアメリカに残り、事業家としてマッチ工場を経営して成功しました。1932年にコロンビア大学でレクチャーしたときの原稿が「Open Channel Flow」という形にまとめられ、欧米社会に知られるようになったのです。
ところで、それ以前の水理学は実験を主としたものでした。産業革命が進み、国際政治としては植民地主義あるいは帝国主義という時代でした。ヨーロッパの国々では、植民地にエンジニアが出掛けるようになりました。例えばインドにしてもエジプトにしても、ヨーロッパにはないような大河が流れていて、そのような川を管理していかなければならなくなり、流量に関する実験的研究などが進んだのです。
我々の水理学のクラシックな立場から根幹をなすと考えられるエネルギー定理あるいは運動量定理としてのベランジェ・ベスの定理は、19世紀の後半に作られています。それらのものをすべて取り入れて体系化したのがBahkmetiffであると言われています。RouseとInceの「水理学の歴史」にも書かれていますが、Bahkmetiff は自分で新しいことをしたのではなくて、いろいろなことをまとめ上げたという点で功績があるのです。
それ以前の水理学がどのような形であったかということを知るには、物部長穂先生の書かれた「水理学」(現在は絶版)やそれを本間・安芸先生が中心になって書き改めた「物部水理学」があります。「水理学」が書かれたのは昭和8年、1933年です。(本を回覧) Bahkmetiffがアメリカで「Open Channel Flow」という本をまとめたのと大体同じ時期です。もちろんこの時代には、今のような頻繁な情報の交換はありませんでしたので、おそらく物部先生もBahkmetiffの本の内容を知っていたわけではないと思います。
この「水理学」を見ておもしろいのは、参考文献が非常に少ないこと、そして、雑誌は別ですが単行本については発行年が示されていないのです。内容を見ますと当時の水理学がどういう位置にあったかがよくわかります。図表がたくさん載っていて、ハンドブックに近いものでした。現在では役に立つのかと思うものも多く、例えば長円形や卵形断面水路の水位と潤辺、そして通水面積の関係などがたくさん書かれています。この本は理論的水力学(Hydrodynamics)および実験を基礎にしたHydraulicsとして書かれており、この時代はまさにHydraulics(水理学)は実験を主にした公式を並べた学問だったのです。しかし、内容は現在我々が水理学と呼んでいる範囲をほとんど網羅しており、土砂流、地下水、さらに波、それから驚いたことに少しではありますが水文学についても書かれています。項目だけを拾い出すと、水理学で取り扱われていた分野を既にほとんど含んでいたと言えます。ただ、学問に対する姿勢が、現在の私たちと全く違っていて、実験公式とか、あるいは技術者に役に立つような事柄を集めて本にまとめたものと言えます。これは、物部先生が内務省の官僚で土木研究所の所長をしている間に書かれたものであったことにも関係しています。話によると、今ほどたくさんの雑誌があったわけではありませんが、物部先生は新着の雑誌が手に入る度に一生懸命カードに公式を記録していたとのことです。
この本の序文には、おもしろいことが書かれています。「図表中のNM(Nagaho MONONOBEのこと)の記号を付けた式を使用する場合には承諾を得るように」と書いてあり、強圧的な感じがしますが、その前の個所を読みますと、「NM式を使う場合にはよく検討してほしい」と記載されていて、真意としてはこの時期にはまだこれらの式に疑問があったのかもしれません。この「NM式を使うときには承諾を得るように」との一文は評判が悪く、後にこの行は削ったそうです。この本を読むと物部先生の熱意とともに、当時水理学がどのように捉えられていたかがよくわかります。
この4年ほど後の1936年に、本間先生が「水理学」という本をお書きになりました(会場に回覧)。本間先生の奥さんのお父さんは機械工学科の先生で、「こんなもの書いても売れないよ」と言われたそうです。案の定、この本は年に数冊しか売れなかったそうです。本間先生は、公式が書かれたハンドブック的な本を基礎から理解できるようにするためにこの本を書いたのであり、「水理学と言うよりは土木水力学と称するべきものである」とも言っています。参考文献としてはLambの「Hydrodynamics」、物部先生の「水理学」、そして当時の水理学の指導的教科書としてのドイツ語で書かれたForchheimerの「Hydraulik」などです。本間先生は水理学の方程式、つまり規則と法則を、Lambの本のようなhydrodynamicsから体系づけて書かれています。この本が戦後私たちが習った「水理学」の骨子を作ったと言えます。しかも、この本を書かれたのは本間先生が30才くらいの時だったと思います。
本間先生の本は日本語で書かれたために、国内では大きな影響を及ぼしたものの、海外にはほとんど知られませんでした。同じ時期に、確か本間先生の1年後だったと思いますが、後に世界の水理学のリーダーとなるRouseが「Elementary Fluiddynamics for Hydraulic Engineers」を書きました。まさに水理学を理論的に体系化したものでした。本間先生の本が、水理学の基礎方程式をhydrodynamicsから導くことを主体として水理学の骨組みを作ったのに対し、Rouseさんはむしろ水理学の諸式や現象の理論的・物理的解釈に力点が置かれていたように思います。あまり難しい数式はRouseさんの本には出てきません。いづれにしても、同じ時期に当時若かったお二人が水理学の体系化を図り、その後の発展の基礎を築いたのです。本間先生と食事をしながら伺った話によりますと、当時はRouseさんを全然知らなかったということでした。当然、本間先生のことを向こうも知らなかったわけです。偶然といいながら全く関連の無い人たちが独立に同時に同じような革新的な仕事をしたというのはおもしろいですね。
1930年代は、学問的に活発な時期でして、量子力学が誕生するのが1924,5年、1930年頃にはDiracが現れ、湯川先生が中間子理論を出すのが昭和10年頃です。力とは何かを世界で初めて考えたのが、湯川先生の功績だと思います。現在の我々が考えてる、これが水理学だという形のものができたのが昭和10年前後あるいは1932,3年頃と言えます。そして、やがて世界はまもなく第二次世界大戦に入るわけです。
戦後の時代、これは日本の国土の復興の時代でありまして、水理学の分野においても、すばらしい研究が次々になされました。それらは、二つに分けて考えることができます。一つは、水理学の基礎を流体力学に求めてより厳密に公式を展開していこうとする立場です。具体的な例を2,3挙げますと、例えば速水先生や林泰造先生は洪水波の理論を完成・発展させ、京都大学の岩垣先生は、当時新しい偏微分方程式の理論だった特性曲線法を導入されてkinematic wave theoryの発展に尽くされました。これは、水文学に限らず土木のいろいろな分野に導入されました。岩佐先生は、本間先生のやり方を一層押し進めて基礎方程式をきちんとした形にまとめられました。この辺のところが、経験的なものを排除して、水理学をより一層理論的やっていこうとする傾向の一つだったと思います。
もう一つは、水理学に新しい現象の解析を取り入れていくということが盛んに行われました。当時、国土が荒れていて災害が多かったこともあり、吉川先生や芦田先生が土砂流、土砂輸送の研究を盛んにされました。Einsteinの土砂輸送公式は知らずに、お二人とも独自に研究されていたようです。椿先生も同じような研究をなされています。それから、密度流、これもその後の水理学の一分野として発展していくわけですが、岩崎先生や嶋先生がこの分野の仕事をいち早くなされました。それと、数学的な発展の方に入れるべきなのかもしれませんが、水力発電ダムの余水吐流れに関連して射流現象の理論的解明がなされています。しかし、これはその後の水理学で大きな分野を獲得するには至りませんでした。むしろ、密度流の方が発展してきまして、その後、温排水の現象として大きな分野を占めるようになりました。
言い忘れましたが。カルマンが流体力学に残した足跡、影響力が大きいことはご存知だと思います。カルマンのお弟子さんを通じて水理学が非常に大きな影響を受けていることを忘れてはなりません。具体的には、Ippen先生、Rouse先生、Knapp、これらの方々が戦後の水理学の方向付けをきちんとやってくれています。つまり、いろいろな現象を基礎的な原理に分解し、実験だけでなく理論的に考えていこうという方向を打ち出しています。
それから、戦後の水理学の特徴というのは、乱流の研究にあったのではないかと思います。戦前にもありましたが、本格的に始められたのは遅かったのです。私の博士論文が「開水路の乱流構造の研究(1960)」でありまして、Ippen先生のところで乱流研究に手を着け始めた時期でした。現在のようにレーザー流速計はなく、また、水の中では熱線流速計は使えないので、total head tubeが使われました。乱流の研究を土木の人がやるというのは、最初はあまり好意的に見られていなかったようです。私も大学院の時に、土木の講義の他に航空の先生の講義も聞きに行ったんですが、その先生から「君は何の研究をしているのか」と言われて、「開水路の乱流をやっています」と言いましたら、「乱流でまだ研究することがあるのかね」と言われました。また、博士論文の審査では、審査員のお一人の長老教授が「もっと役に立つことをやれ」と言って甚だご機嫌が悪かったのを覚えています。
大学院のドクターコースを終えて、すぐに電研に入りましたので、乱流の研究は一時中断しましたが、その後、乱流の研究は、土木、機械の分野で非常に大きく成長しました。私がドクター論文を書いているときに、Klineのbursting theory(1959)が発表され、その数年前の1956年にはEinsteinとLiによる境界層のrenewal theoryが発表されました。しかし、大規模乱流と後に呼ばれるようになるKlineの研究は、なかなか認められなかったのです。しかし、彼は辛抱強く世界の流体力学のリーダー達に自分の研究を紹介し続けました。そして、1967年のJFMに厚い論文が載り、それ以降、一斉にburstingないしはlarge eddyあるいはcoherent eddyの研究が始まったのです。今まで現象論的にしか説明できなかった乱流現象が、かなり正確に理解できるようになったのです。
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水理学が内容的にも、手法的にも、また、ものの見方においても大きく発展してきたのがおわかりいただけたかと思います。そして、その延長線上にあるのが環境水理学です。誰が、いつから始めたのかということを特定するのは難しいと思います。環境に関する水理学あるいは流体力学の発展を見ますと、Taylerが1921年にロンドンの数学学会誌に発表した「連続運動による乱流拡散」をあげるべきだと思います。次に、水力発電や洪水防御のためのダム貯水池の成層化、選択取水、洪水流の流入;火力および原子力発電所の温排水の拡散など、いわゆる密度流の研究も物理的な環境水理学の問題として早い時期から研究されました。しかしまあ、拡散現象自体は物理現象でありまして、環境水理学の大事な分野ではありますが、それだけをもって環境水理学と言うのは難しいとも言えます。やがては、環境水理学の大きな柱とはなるのですが。
生物のことを水理学に取り入れたものを調べてみますと、論文としては発表されていないのですが、Ippen先生が水路にカタツムリを張り付けてどれだけ水を流したら流されるかという実験をしたことがあります、これは椎貝先生から聞いたのですが。この辺が先輩方が生物現象に興味を持ち始めた始まりかなと思います。
私は、大学院の頃によく山に行きました。尾瀬などは湿原の中をとてもきれいな川が流れていて、水草がゆらゆら揺れてるのを見て、こんな研究をやってみたいなと思ったこともありました。やがて、環境水理学に関して書いた最初の論文が水草を成長させている川の流速分布でした。もっともこれにはお手本がありまして、農業気象の井上先生が1963年に植生群落の中の流速分布、やがては物質の交換についてやっておられて、気象の分野では植物生産に関して既に足を踏み入れていたのです。
それからもう一つ、岸先生が、これも論文にはなっていないのですが、非常にうまい発想をなされています。北海道できれいな川を見られていたせいかもしれませんが、「我々水理学者はもっと生物のことを考えなければいけない。たとえば、鮭が川を上ってくるときにどのような所を好んで登ってくるのか、そういうことをやったらおもしろいんだがなあ」と、おっしゃっていました。室田先生のグループが川の中の植物の抵抗がいくらかということを調べた研究もありました。このあたりが、環境水理学が始まる前奏曲というか、前の時代であったように思います。その後、社会的な要請もあって、一気に環境の問題を取り扱うようになりました。
わたし自身に関しましては、1977年に「Eco-Hydraulics」という分野を提唱し、本にまとめております。それの引き金となりましたのは、尾瀬の水草の話もありますが、もう一つは、原子力安全委員会の審査委員会に出ておりまして、生物の人達との接触が多かったことにもあります。驚いたことは、私たちは実験室で条件をコントロールしながら実験的研究を進めるのですが、生物の人達というのは実験室のデータを信用しないんです。特に生物濃縮、つまり放射性物質などが生物の体内に蓄積される問題ですが、1000個の実験データがあってもたった1個の現地データがあると1000個の実験室データを捨ててしまうんです。そんなこともあって、生物に有毒物や放射性物質が貯まるのはなぜかといったことを考えたこともありました。
それから、水文学もやってました。runoffモデルを作るという研究が始まっていたわけですが、どうもいろいろなデータをうまく利用していないように思えて、水理講演会のときにもっと利用したらどうですかと言ったのが、藪蛇になりまして、自分で水文学の統計データを扱うようになりました。その時代から確率統計的な水文学が発展して行くわけですが、やがてそれでは行き詰まって、物理学的な物理水文学へと進んでいくことになるのです。その延長線上に、水文学に関連して雨水の浸透と植生、そして現在やっているような穂波、植物の揺らぎ問題の研究があるのです。
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次に、水理学はどこに行くんだろうか、という話をします。
社会的な要請もありまして、水理学あるいは河川工学をやっている人が、植生あるいは環境、生態に関与することが大変多くなりました。でも、水理学というものをどう定義するかというのは、やはり難しいことです。クラシックなところに限界を引く必要は何もないわけですが、しかし、すべてのものが水理学だと言えるわけではありません。例えば、河原に生えている草木の生え方などを研究しても、それは河川工学的にはいいのでしょうが、これも水理学の研究であると言うのはどうかなと思います。
学問分野の発展を見ますと、例えば、物理学が一番いい例だと思いますが、19世紀の終わりにアインシュタインがスイスのチューリッヒの大学で学んだ頃には「もう物理学には新しい発展はない」と言われていたそうです。しかし、20世紀に入ってから我々は分子、原子の中身、あるいは素粒子の世界へと踏み込んで行くわけです。生物学もまた良い例で、18世紀の末に始まるリンネンによる分類学がずっと続いて行くのですが、やがて、物理学者のシュレディンガーが、生命はどうして誕生したのだろうかということに踏み込んで行きます。そして、デルブリックがファージの研究を始めます。ともに物理学者です。やがてケンブリッジ大学で、アメリカからやってきた若いワトソンとキャベンディシュ研究所でX線解析をやっていたクリックによるDNAモデルができるのです。それが生物学の世界を大きく変えてしまうことになるのです。水理学では、このような劇的な変化があるとは思いませんが、今後、水理学の包含する内容はかなり変わってくるのではないかと思います。
では、自分が歩いてきたときに先が見えたかというと、私の場合には、生意気なことを言うようですが、割と先が見えていたように思います。乱流をやらなければいけないということは早い時期から考え、水文学においても統計的な処理から物理学的なものにいかなければならない、そして植生の影響も考えなければならないということに気づきました。それから、大学院生であった1950年代後半に、コンピューターが誕生したヨチヨチ歩きの頃に、これからはコンピューターの世界が開けることも感じていました。進化というものは一様な速度で進むものではなくて、ある時に急激に進化が進むと言われていますが、科学の分野でも同じで、ある新しいテーマが発生しますとそれに多くの人が問題解決に参入して来て、瞬く間に解決してしまいます。それが、新しい分野を急激に開いていくことになります。若い諸君がこれからやっていく分野は大きいように思います。
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最近私がやっていることを少しお話しします。
穂波の研究だとか、あるいは植物生理、それからレーザーを使ったCT型の濃度計などの研究を相変わらず続けております。しかし、一緒に研究してくれる学生がいないこともありまして、一人でやっているため、あまり進み方は早くはありません。
東工大を退官してからやり始めたことのひとつに、文明のダイナミックス、むしろ「数値文明史」と言った方がよいと思っているものがあります。元々の発想は、私が大学院を終えて電研に入ったとき、当時のコンピューターは今のパソコンの何千分の1の能力しかなく幼稚な時代でしたが、こんなことを考えました。もし、始めにアダムとイブがいてだんだん子孫を作って発展し、国土が拡がっていき、やがていくつかの部族の間に争いが起こるというような人間の歴史が、コンピューターの中でシミュレートできるだろうと考えたのです。ただ、当時の計算機はそのようなことをやる能力がありませんでした。その後、私は電研で大気拡散などの研究をやるようになり、もう、そういうことをやる機会はなかったのですが、中央大学の総合政策学部に移って他の仕事もやらなくてはならない立場になったときに、30年、40年前のことを思い出して始めるようになりました。
私が最初にやってきましたのは、農業革命によって人口がどのように増加するのかということでした。農業が1万年前に生まれ、スキが発明されて、コロンブスがアメリカからジャガイモをもってくる。その結果、生産力が増加し、人口が増えてきます。このようなことを数式で表そうとするもので、方法は生態学と同じ方法です。人口の増加と食料生産とは非常に関係があります。もう一つは人間の知能の発達が関係しています。知能が発達することによって、同じ土地からの生産力が上がるんです。大事なことは食料が我々の人口を制約しているのであって、いつも多少飢餓的な状態のところに落ち着くのです。このことは現在のアフリカの状態を見ればわかると思います。農業技術の改良によってしばらくは先延ばしにできるのですが、いずれ人口ないしは食料によって、我々の文明は行き詰まってくるのです。天才が現れる確率を考えますと、また計算結果は変わってきます。
二番目の問題は、例えば1万年前にメソポタミアで農業革命が起こり、小麦作がヨーロッパ社会にどのように伝播して行ったかは、炭素14を使って知ることができます。アンマーマンらの考古学的な資料には1万年前からどのように小麦作の技術が伝わって行ったかが示されています。日本の場合ですと弥生文化をもった人たちが稲作とともにどのように日本列島に拡がっていったかということになるでしょう。東大の青木健一先生が言っておられますが、ただ単にある技術、この場合は小麦作ですが、を持った民族が移動して増えていくだけではたいした進み方はしないそうです。狩猟民族が農耕民族のやっていることを見て、同じ労力で食料を得るためには農耕の方がはるかに有利だということを知って転換していく、そのようなプロセスを考えなければ、うまく説明できないと言っています。私のモデルは拡散モデルを使っていますが、狩猟民族が農耕民族に変わるということを考慮した計算結果は、アンマーマンらの考古学的資料とほとんど一致したものとなります。このようにして我々がもっている考え方が考古学の方にも使えるというおもしろい結果になりました。
三番目の問題は、アダムとイブがいたならば、どのように人口が増え、そして耕作地が拡がり、やがて社会的集団の衝突どのように起こるのかを扱ってみました。4組の夫婦から始まって子孫が増えていき4代もすれば人口がかなり増えるだろうと思ったのですが、驚いたことに聖書に書いてあるようにはならなくて、逆に4代も経ったら人口は減って滅びてしまうんです。それは争いをしたからではなく、実は、現在のような倫理観をプログラムの中に入れてあって、兄弟はもちろん、親子、叔父叔母もそうですが、結婚をしてはいけないという現代の倫理規定を入れたためなんです。おそらく昔は結婚に対するタブーが少なく、病気も多かった反面、繁殖率も高かったと思われます。
時間がまいりましたので、この辺りにして、またいずれ機会をみてお話したいと思います。
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