会長からのメッセージ


地震と私


田中 茂義 TANAKA Shigeyoshi 第111代土木学会会長


わが国は地震多発国であり、関東大震災に代表されるようにこれまでも多大な損失と被害を受けてきた。私自身多くの地震を体験しているが、影響を受けたいくつかの地震について述べる

ロマプリータ地震
1989年10月、米国カリフォルニア州北部を震源とする地震が発生しサンフランシスコなどに大きな被害をもたらした。ベイブリッジの橋桁の一部崩落とダブルデッキの高速道路の崩壊は大々的に報道された。
地震発生の翌日、役員席に呼ばれ、「すぐにサンフランシスコに飛ぶように。米国が地震発生後どのように平時に戻るのか、自分の眼で見て来なさい」と指示を受け、社内の土木、建築技術者からなる調査団を組み、現地に出張した。
信号が未復旧の交差点では、先に交差点に入った車が優先され、車両が整然と交差点を交互に通過するという平時のルールの遵守が新鮮に感じられた。アメリカ地質調査所(UnitedStatesGeologicalSurvey、略称:USGS)では、研究員と意見交換した。地震波の情報は速報されており、誰でもアクセスできることも驚きであった。研究活動のスピード感、開放性、充実度に感激した。新聞記事もカラーの図解入りで、読者に分かりやすく伝えていた。米国と日本との違いを痛感した。
写真1 十勝大橋全景 写真2 建設中の十勝大橋

十勝大橋での地震体験
1992年から北海道帯広市で十勝大橋の工事に従事した。3径間連続PC斜張橋で、片持ち張り出し施工を行い、閉合する工事であった。
工事中に3回、大地震の影響を受けた。1回目は1993年1月の釧路沖地震で、型枠・支保工が、捨てコンクリートもろとも10p 沈下し、やり直しを行った。コンクリート打設直前であり、ある意味では幸運であった。2回目は1994年10月の北海道東方沖地震で、M8・2、震度W(帯広市)の地震が張り出し施工中の橋を襲った。タワークレーンのブームが共振して折損した。夜のため誰も現場におらず、人災を免れた。タワークレーンの復旧には約2カ月を要した。3回目は主桁閉合直前、1995年1月の兵庫県南部地震である。閉合用のPC鋼棒の工場が伊丹にあり、被災した。2月に連結式が予定されており、納入が危ぶまれたが、何とか間に合った。地震被害に加え、技術的課題も多かったが、バイタリティと人の和で乗り切った。現在の自分の会社人生を方向付けた工事であった。

東日本大震災
2011年3月、東日本大震災発生当時は、九州支店長として福岡に単身赴任中であった。当日は沖縄に向かう途上で地震発生を知った。出張は中断され、家族ともメールしか通じない日が1〜2日続いた。支店の各現場から支援物資を取りまとめ、本社経由で被災地に送った。その後も災害廃棄物の処理、高台移転、除染、中間貯蔵施設建設、福島第一原子力発電所事故対応などに注力した。これまでの震災と異なるのは原子力発電所の被災に起因する長期にわたる震災復興である。被災地の住民がかつての日常を取り戻すまでの道のりは長いが、今後も震災復興事業には積極的に参画していきたい。

『地震と私』と題して、地震との関わりを述べた。わが国では、南海トラフ地震、日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震、首都直下地震などが高い確率で起こると予測されている。土木技術者として何ができるか、個人として何をすべきか。最近、折に触れて思うのである。
© Japan Society of Civil Engineers 土木学会誌編集委員会