写真① 水道記念館(旧送水ポンプ所) | 写真② 大磯配水池(現大磯低区配水池) |
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写真③ 茅ヶ崎配水池 | 写真④ 藤沢配水池 |
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写真⑤ 鎌倉配水池(現佐助配水池) | 写真⑥ 逗子配水池 |
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【施設の概要】
水道記念館(写真①)の建物は、県営水道創設工事により整備した旧寒川第1浄水場で浄水した水道水を配水池へ送る「送水喞筒(そくとう=ポンプ)所」として、神奈川県水道局工務課の阿部文雄技手の設計により建設された鉄筋コンクリート造平家建の建物で、外壁には昭和初期の官庁建築によく用いられたスクラッチタイルが貼られており、内部に8台の送水ポンプが設置されていた。現在、建物の入口脇には、当時使用していたポンプ1基が展示されている。
旧寒川第1浄水場は、施設の老朽化と排水処理施設築造のため、拡張工事により整備された第2、第3浄水場にその役割を譲り、1978(昭和53)年3月に休止したが、1984(昭和59)年に県営水道50周年を記念して、旧送水ポンプ所の建物を活用し、神奈川県の水道事業を永く県民に伝えるため、県営水道の広報施設「水道記念館」として整備し、同年4月から公開している。旧寒川第1浄水場の建物としては唯一現存しているものであり、1985(昭和60)年5月に、我が国の近代水道100年を記念する文化財として「近代水道百選」の1つに選定されている。
創設時の県営水道は、寒川第1浄水場の送水ポンプ所から、東方面へは延長41,610m、西方面へは延長9,814mにわたって布設した送水管(鋼鉄管又は高級鋳鉄管)を経由して、その途中に東は茅ヶ崎(写真③)、藤沢(写真④)、鎌倉(写真⑤)、逗子(写真⑥)の4箇所に、西は大磯(写真②)の1箇所に、標高約50mの高台を掘削して配水池を設け、各配水池の所在地域一円に自然流下で配水していた。
各配水池は、1945(昭和20)年の推定人口に対し最大1人1日140リットルの約7時間分の容量を確保し、鉄筋コンクリートの池底及び天井上面に防水剤を塗布して漏水を防止し、池の天端には換気口を設けて池内の空気の転換を図った。配水池本体は地下に埋設し覆土されているが、地上には鉄筋コンクリート造の受水槽(井)上家があり、上家の入口には県営水道創設当時の人々の思いを刻した扁額が埋め込まれている。各配水池は、その後の給水需要の拡大に応じて容量の拡張が行われたが、現在も配水池として活用されている。
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【施設の諸元】 |
所在地: |
①水道記念館(旧送水ポンプ所):神奈川県高座郡寒川町 ②大磯配水池(現大磯低区配水池):神奈川県中郡大磯町 ③茅ヶ崎配水池:神奈川県茅ヶ崎市 ④藤沢配水池:神奈川県藤沢市 ⑤鎌倉配水池(現佐助配水池):神奈川県鎌倉市 ⑥逗子配水池:神奈川県逗子市 |
竣工年月: |
①1935(昭和10)年11月 ②〜⑤1936(昭和11)年4月 ⑥1934(昭和9)年4月 |
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構造形式等: |
①鉄筋コンクリート造平家建タイル貼 床面積416.18㎥ ②〜⑥各配水池の構造:鉄筋コンクリート造(地中埋設)、受水井(槽)上家あり ②池の長さ24m×幅24m×深さ4m 容積2,248㎥(当初) 水位標高50m〜46m ③池の長さ12m×幅12m×深さ4m 容積567㎥(当初) 水位標高50m〜46m ④池の長さ24m×幅16m×深さ4m 容積1,502㎥(当初) 水位標高49m〜45m ⑤池の長さ24m×幅24m×深さ4m 容積2,248㎥(当初) 水位標高60m〜56m ⑥池の長さ16m×幅16m×深さ4m 容積1,004㎥(当初) 水位標高54m〜50m
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受賞理由: |
神奈川県営水道施設群は、湘南地域1市9町に創設され、現在は12市6町に拡大した我が国初の県営広域水道の歴史を永く県民に伝える貴重な土木遺産である。 |
管理者: |
神奈川県企業庁 |
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【神奈川県営水道の創設(参考)】
神奈川県営水道施設群は、我が国初の県営広域水道創設時の送水ポンプ所及び配水池からなる施設群である。 神奈川県の湘南地方は早くから自然的、社会的条件に恵まれ住宅地、観光地、保養地として発展し、これに伴い水需要も増加した。大正末期から昭和初期にかけ、この地方には民間会社経営の水道があるものの、多くは井戸水を飲用しており、水質不良や水量不足で困窮している状態で、上水道布設の必要性が叫ばれていた。 本来、上水道は市町村経営が基本であるが、水源の開発及び財政上の困難による、地元市町村から県営による上水道事業実施の要望を受けて、県は、横浜市との共同事業により、相模川上流を水源とする水道事業の計画など、様々な調査検討を行ったものの、いずれも関東大震災の影響や財源難等のため実現しなかった。 このような中、1931(昭和6)年12月の通常県会において、給水区域を湘南地方の1市9町(平塚市、藤沢町、茅ヶ崎町、鎌倉町、腰越町、逗子町、葉山町、大磯町、浦賀町及び片瀬町)とし、相模川下流(当時の寒川村宮山)の伏流水を水源に、高台に設置する配水池へポンプで送水し、配水池から自然流下により給水を行う県営水道の事業案が議決され、1933(昭和8)年3月に内務大臣の事業認可を得て、同年5月に着工した。 県営水道創設当時の給水人口は4,015人にすぎなかったが、着工時の計画給水人口(1945(昭和20年))は347,300人、計画給水量については、1人1日最大給水量の140リットルと漏水その他の消耗を加えた155リットルであった。 当工事は3か年継続の失業救済事業として国庫補助を受けて実施したため、大部分は直営で施工し、工事に従事した延労働者数は36,880人、総工費555万円を費やして1936(昭和11)年4月に竣工した。
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