土木人物アーカイブス(映像と講演記録)

八田 與一  八田 與一

高橋 裕講演会『民衆のために生きた土木技術者たち』(2006.2.21)

八田 與一(台湾の開発に尽くした男)
 八田與一の話をする時間が少なくなりましたが、彼は大学を出るや否や台湾に渡りました。そして、生涯、台湾のために働いたのです。それは広井の教えです。土木事業はその事業をやる場所の庶民のために行うべきである、外国へ行って日本の方ばかり向いていたのでは真の土木事業ではない。外国へ行って日本へ帰ったときにいいポジションがあるなどと考えるのは土木技術者ではない。日本のことを考えず、そこに骨を埋めるつもりで、その国のために働く。それが広井の国際的感覚です。
 八田は最期まで台湾のために働いた人です。それを奥さんもわかっていたのですね。ですから、夫が亡くなり、台湾に骨を埋めるつもりでいたら、戦争に負けて日本人は帰れということを聞いたときに、奥さんは人生の生き甲斐を失った。
 台湾に骨を埋めるつもりで来たのに、台湾から追われるようになって、人生の先が真っ暗になって、終戦後、夫の作ったゲートに飛び込んで自ら命を絶つ。そこで八田夫妻のお墓は台湾の銅像の横にあって、今もなお非常に感謝されている。
 今年の5月から台湾のテレビで八田與一の一生をドラマにするそうです。

 八田與一は、台湾の特に南の方に行きますと大変知名度が高い。台湾に銅像のある唯一の日本人です。そして、八田が亡くなったのは昭和17年5月8日、もう64年も前なのですが、それにもかかわらず毎年、命日の5月8日には地元の人たちが八田與一の銅像とお墓の前に集まって、八田與一に感謝する会を開いているのです。この映画の最後に、一咋年の5月8日の状況が映っています。
 私は、八田與一が台湾でいかにいい仕事をしたかということに敬服しましたが、台湾の人たちが60年経っても、毎年、それを感謝する会を開いている、そういう恩義を感ずる精神に感動しますね。
 台湾では、元総統の李登輝さんが大変八田與一を尊敬していて、こんな立派な日本人が台湾に来て台湾のインフラの基礎を築いてくれた。これぞ台湾の恩人だ、こんな立派な日本人がいたということを台湾で講演し、本に書いている。数年前、ビザで来られなかったのですが、あのとき、日本に来て慶応で講演する原稿の全文が産経新聞に出ました。それは、日本へ来たら八田與一を称え、あの八田與一のおかげだったということを、自分は台湾の人間として日本人に知らせなければならないという内容でした。それほど台湾では知られた人です。

- 古川勝三さんの『台湾を愛した日本人』。古川さんは日本語教育のために文部省から派遣されて台湾の高雄へ行ったのです。高雄で日本語を教えている最中に、八田與一という人が台湾でいかに尊敬されているかを知って借然として、これは日本人に知らせなければいけないというので、大変な取材をしてまとめた本が『台湾を愛した日本人〜嘉南大しゅうの父・八田與一の生涯』(1989年 青葉図書)で、これも土木学会著作賞(平成2年度)を受賞されております。この古川さんの本は中国語に訳されました。残念ながら、中国語版の方が日本語版より売れているようです。

 私が期待するのは、日本でもせめて台湾並みに八田與一が尊敬され、知られた人になって欲しい、ということです。(後略)

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八田 與一氏 経歴

1886(明治19)年 石川県河北郡花園村(現在の金沢市)に生まれる。
1910(明治43)年 東京帝国大学工学部土木科を卒業後、
台湾総督府内務局土木課へ技手として就職。
当初は衛生事業に従事し、各都市の上下水道の整備を担当する。
1914(大正3)年 桃園大司の水利工事を一任され、これを見事に成功させる。
1917(大正6)年 米山外代樹と結婚。
1918(大正7)年 台湾南部の嘉南平野の調査を行う。
1920(大正9)年 烏山頭ダムと1万6000キロに及ぶ灌潮用水路の建設に従事。
1930(昭和5)年 烏山頭ダム・灌親用水路が完成。
1942(昭和17)年 調査のため長崎からフィリピンに向かう途中、
乗っている船がアメリカ潜水艦に撃沈され逝去。
享年56歳。ほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くした。

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