高橋 裕講演会『民衆のために生きた土木技術者たち』(2006.2.21)
(宮本武之輔と技術者運動)
宮本は正反対の人だったようで、大河津の現場にいるときも、毎晩、部下や労務者と飲んで騒いでいたようです。待合い遊びも相当な達人だったようです。また、大変文才があって、若い頃は小説家になりたかったけれど、周りから大反対された。
高校時代には、法学部に行くか工学部土木工学に行くか大変悩んだのですね。法科は文科系ですし、土木は理科系ですから、なぜそれが選択の対象になるのだろうかと凡人は思うのですけれども、要するに宮本は国家杜会を動かす人になりたかった。それには東大の法学部へ行くか土木工学科へ行くか。法学部へ行くというのはよくわかりますが、さもなくば土木工学科へ行くというのが一味違うところだった。
実際に仕事をして直接民衆のために役立つことこそ生き甲斐であるというので土木工学科へ行くわけです。
若い頃から文才があり、演劇を書いたり、詩を書いたり、小説を書いたりしていて、一高時代には芥川龍之介と同級生で、生涯つき合っております。そして、彼は中学1年から亡くなるまで日記を克明に書いているのです。その日記を読みますと、大変な読書量です。世界文学全集が大正末期に訳されますと片っ端から読んで、日記にその読後感を書いているのです。
世界の名作から自分は何を得たかということが日記に書いてある。それと、夜遊びもお好きだったので、料亭へ行ったときの芸妓の名前が克明に書いてある。そこまで書くこともないような気がしますが、とにかく日記も丹念です。所々ドイツ語や英語になるのですね。宮本を研究しようとすれば日記を読まねばならない。
日記を読んでいるとドイツ語が出てくるので、田村喜子さんも難渋したようで、中村英夫さん(現武蔵工大学長)に翻訳を頼んだそうです。
お手元に参考文献がございます。まず、高崎哲郎さん。今は土木研究所の研究員ですが、文科系の方です。元帝京大学教授で、その昔はNHKの記者をしておられましたが、土木に関する伝記を20冊くらい書いています。ここにはその中で今日の映画に関係のある青山と広井、宮本について書かれたものを挙げてあります。一番最後に挙げたのは、つい最近出た安藝皎一伝。安藝皎一は私の先生です。今日の映画とは直接は関係ございませんが、青山士の直系のお弟子さんということで、あえてここに紹介いたしました。安藝皎一先生は、大正15年に東京大学を卒業して、内務省に入って最初に勤めたときの上役が青山士で大変教えていただいた。
私は安藝皎一先生を通して、青山さんという人は若い頃パナマヘ行ったんだよという話を伺ったので、そういうすごい先輩がいたのかということで磐田をお訪ねした次第です。
田村喜子さんの『物語分水路一信濃川に挑んだ人々一』は昭和2年の事故から大河津が完成するまでの4年間の宮本の奮闘ぶりを書いた本です。事故が昭和2年6月24日で、その6月24日を記念して完成式は昭和6年6月24日に行なわれております。田村喜子さんは田辺朔郎の業績を記録文学としてまとめた『京都インクライン物語』で土木学会著作賞(昭和58年度)を受賞されました。田村さんは、琵琶湖疎水の田辺朔郎は私の永遠の恋人だと言ってはばからない。
三宅雅子さんの『熱い河』は、青山士のパナマ運河における奮闘ぶりです。三宅さんは大垣にお住まいですが、パナマに何回か取材に行かれまして青山を研究されて、こういう本をお書きになっています。『乱流』(デレーケの伝記)という本で平成5年度の土木学会出版文化賞を受けておられます。
大淀昇一さんは教育学がご専門で土木の方ではありませんが、東京工業大学の助手でいらしたときに宮本武之輔を研究し、すっかり惚れ込んだのですね。幸い、宮本武之輔は書いたものがいっぱいあるのです。青山はあまり書いたものがなくて研究する人は困るのですが、宮本は日記その他、学会への学術報告のみならず、日本の国土はいかにあるべきか。たくさんの論説を書いています。
この映画では大河津分水の話だけですが、宮本武之輔が一生をかけた仕事は技術者運動です。技術者の地位向上に宮本は一生を捧げるのです。そこに大淀さんは感嘆して、徹底的に宮本武之輔を調べて、それを博士論文にして東京工業大学に提出しました。東京工業大学の杜会工学科に「宮本武之輔と科学技術行政」という博士論文を出した。あるとき、東京工業大学の杜会工学科におられた中村良夫先生から電話がありまして、実は宮本武之輔についての博士論文が出た、しかし杜会工学科で宮本武之輔を聞いたことのある人は一人もいないので困った。論文を出した人の方がよく知っているのでは審査員は少々困りますね。中村良夫さんから、東大の学生のときに先生の河川工学の講義で宮本武之輔の話を聞いた、自分はちょっと知っているけれど詳しくは知らないから、論文の審査員への依頼を受けまして、この博士論文とつき合いました。それをぐっと縮めたのが『宮本武之輔と科学技術行政』という本です(平成2年度土木学会著作賞)。
ぐっと縮めても1万2千円という本で、これを読めというのも酷ですが、幸いにして大淀さんには宮本武之輔の科学技術者運動を一般向けに書いた、中公新書の『技術官僚の政治参画』という本があります。何とも硬い題ですが、大淀さんから相談を受けまして、一般向けの本を書けと言われた、それはいいことだ、博士論文だけでは一般の人には知られないけれど、新書で書けば宮本武之輔の知名度も上がって大いに結構だから、本の題は"宮本武之輔と何とか"になるのだろうと大淀さんも思っておりましたが、中央公論杜が許さない。
というのは、田村さんも『物語分水路一信濃川に挑んだ人々』を鹿島出版会から出す前に、ある有名な出版杜に宮本武之輔のことを書くと言って交渉したけれど、断わられているのですね。
中央公論杜もそうなのですが、出版杜の言い分は、伝記というのは有名な人が有名な人を書けば必ず売れる、しかし、有名でない人が有名でない人を書いても決して売れない。宮本武蔵なら皆が知っているけど、宮本武之輔なんて土木の一部の人以外は誰も知らない、そんな名前の本が本屋に並んでも誰も買おうとはしないというので、宮本武之輔の名前を出すことはできなかった。
田村さんは有名でない人に分類されて、憤慨していましたけれども。有名でない人が有名でない人を書いた本は決して売れない。ちょうどその頃、井上靖の『孔子』がベストセラーでした。井上靖という有名作家が知名度の高い孔子を書いた。田村さんは土木の世界では知名度が高い女流土木作家ですけれども、残念ながら紫式部とか樋口一葉に比べると知名度は低いと言わざるを得ない。
話を宮本に戻します。宮本は青山と違って、大変話せる人だったのですね。常に部下や、特に大事なのは一緒に仕事をしている人々や住民と酒を酌み交わして話していた。関東大震災の後、宮本は欧米に視察旅行に行きます。帰ってきて鉄筋コンクリートの博士論文を書きますが、その調査で欧米を回っています。ところが、びっくりしたのは、ロンドンでフエビアン協会に行っているのです。フェビアン協会というのは、今のイギリスの労働党の元を作った思想団体です。でも、作ったのがバーナード・ショーといった人たちですから、決して過激な社会主義ではない。宮本はなぜそこへ行ったのか。労務対策などを勉強しに行ったらしいのです。土木技術者たる者は労務対策をちゃんと勉強しなくてはならない、その面で進んでいるイギリスではどのように考えているかを、ロンドンのフェビアン協会に行って勉強している。視察といえば専門のことプラス観光しか行かない人とは大違いです。
彼は内務省には満足せず、企画院の副総裁になるのですが、彼の生き方で非常に学ぶべきは、大変交友範囲が広いことです。作家、政治家、芸術家、そういういわゆるハイクラスだけではなく、現場で庶民と話していた。ですから、陳情の受け方が他の政府高官とは違っていたそうです。どんな人とも平等につき合って、いろいろな立場の人の話を聞く。そういう聞く耳を持っていたことが、宮本の大人物たる所以だろうと思います。
そういう観点に立って彼は技術者運動を始めるわけです。日本では技術者の地位が低い、なぜ法学部出ばかりがあんなに威張っているのか。(中略)官本に言わせれば、技術者の地位がしかるべく社会的に評価されない限り、その国のインフラは健全に育たない、日本のエンジニアは何と冷遇されていることか。
宮本は、たくさんの読書量と、欧米を回ったときに土木の現場だけを見るのではなく、政治家などにも会って討論しているのですね。今日の映画は大河津分水だけですが、彼の真骨頂はいろいろな階級の人と積極的に話す言葉と識見を持っていたところにあります。パーティーのときに違う専門の人と話をして、自分の教養をさらけ出すのが重要です。日本人が国際会議のパーティーで外国人からとかくつまらないと思われるのは、話題がないからです。天気の話とか「日本へ来たことがありますか?」「日本の料理はおいしいですか?」とか、それがくだらないとは申しませんが、それだけでは残念です。それをきっかけに、お互いの人生観の一端を語り合って友を得るのが国際会議のパーティーの趣旨です。そういう点で宮本はその先駆者です。今みたいな立食パーティーはなかったでしょうが、彼は積極的にいろいろな階層の人と話し合える言葉を持っていた。彼の教養の広さがその仕事に表われているわけです。大淀昇一さんはそれに惚れ込んだのですね。
宮本は、とにもかくにも幅の広い人です。あれだけの教養の広さ。いろいろな階級の人と話し合うということは、相手の立場を理解できる。そういう人間が今の土木技術者に最も期待されると考えられます。青山は、自分の仕事は民衆のためにどういう貢献をするかを常に考えていた人です。何しろ、人類のためにということでパナマに渡った人です。したがって、大河津分水の記念碑にも「人類ノ為メ」とあります。つまり、新潟県の一土木工事においても常に彼は、自分のやっている仕事は人類のためにやっているという自覚があった。宮本は、庶民のためにどう役立つか、貢献するかということを考えていたからこそ、積極的に一般庶民と話し合ったのですね。自分のやっている仕事の位置づけ、杜会的意義、そして後世にどういう影響があるか。それは、広井が100年先までのテストピースを作ったことに表われています。積極的に違う立場の人の意見を聞いて、それがわかる。それが現在の土木技術者に大変要望されることでしょう。
宮本 武之輔 略歴(関連事項を中心に抜粋。詳細はこちら pdf 12kb)
1892(明治25)年 | 愛媛県松山市興居島に生まれる。 |
1910(明治43)年 | 第一高等学校に無試験で入学。 |
1913(大正2)年 | 文学者を志したが断念し、東京帝国大学土木工学科へ入学。 |
1917(大正6)年 | 同校を首席で卒業後、内務省に入省。 利根川第二期改修事務所の安食工場に勤務。 |
1919(大正8)年 | 内務省技師に任官され、荒川放水路の小名木川聞門の設計施工に従事。 |
1920(大正9)年 | 中路ゆき子と結婚 |
1927(昭和2)年 | 大河津分水の自在堰が陥没。 信濃川補修事務所主任として大河津分水可動堰の設計施工を指揮。(1927〜1931) |
1928(昭和3)年 | コンクリートに関する研究で工学博士となる。 |
1930(昭和5)年 | 長野県を襲った集中豪雨の際、工事が大きく遅れることを知りながら 仮締切を切って近隣住民を洪水の危機から救った。 |
1931(昭和6)年 | 可動堰完成。 |
1936(昭和11)年 | 現在なお河川工学の原典とも言われる「治水工学」を著す。 |
1941(昭和16)年 | 逝去享年49歳。 |
参考文献リスト
高崎哲郎 | 技師・青山士の生涯−われ川と共に生き、川と共に死す 1994年 講談社 |
高崎哲郎 | 評伝 山に向かいて目を挙ぐ 工学博士・広井 勇の生涯 2003年 鹿島出版会 |
高崎哲郎 | 評伝 工人 宮本武之輔の生涯−われ民衆と共にことを行わん 1998年 ダイヤモンド社 |
高崎哲郎 | 評伝 月光は大河に映えて 激動の昭和を生きた水の科学者安藝皎一 2005年 鹿島出版会 |
高崎哲郎 (監修) |
久遠の人 宮本武之輔写真集−「民衆とともに」を高く掲げた土木技術者 1998年 北陸建設弘済会 |
田村 喜子 | 物語 分水路−信濃川に挑んだ人々 1990年 鹿島出版会 |
田村 喜子 | 京都インクライン物語 1982年 新潮社 |
三宅 雅子 | 熱い河 1998年 講談社 |
三宅 雅子 | 乱流−オランダ水理工師デレーケ 1992年 東都書房 土木学会出版文化賞 |
大淀 昇一 | 宮本武之輔と科学技術行政 1989年 東海大学出版会 土木学会著作賞 |
大淀 昇一 | 技術官僚の政治参画−日本の科学技術行政の幕開き(中公新書) 1997年 中央公論社 |