- 1.名 称:
-
- 2.所在地:
- 川崎市多摩区布田〜川崎市幸区鹿島田 18.46km
- 3.完成年:
- 昭和24(1949)年6月
- 4.管理者:
- 川崎市
- 5.諸元・形式等:
- 川崎市多摩区〜幸区 18.46km
現在は1級河川、準用河川、普通河川として指定されている。
現在の河道は多摩川右岸農業水利改良事業により形成されており、その概要としては以下に示す。
- 平瀬川と三沢川の2河川をニヶ領用水への流入をさせず、多摩川へ流入させ大雨時の洪水を防ぐ施工をする。
- 上河原・宿河原の両堰を蛇籠堰からコンクリート堰に改造し、維持修繕費の軽減を図る。
- 分量樋から下流の用水流路を改め、コンクリート水路にすると共に、水位を高めて分水をしやすくする。
- 分水施設の算定をしなおし、コンクリート造りの施設にする。久地分量樋は、直径16mの円筒分量樋とする。
- 水路は統廃合を行い取水の円滑化を図る。また土質不良箇所などはコンクリート造りとする。
- 6.推薦理由:
- ニヶ領用水は、川崎市多摩区布田にある上河原堰と多摩区宿河原にある宿河原堰から多摩川から取水し、江戸及び明治時代は東京湾まで流れていた多摩川流域で最古で最大の農業用水でした。そして、昭和に入り多摩川からの取水の改善と耕地整理を目的に「多摩川右岸農業水利改良工事」が行われ、現在のニヶ領用水の形が作られました。これらの工事の形状が現在まで残されており、ニヶ領用水と同時期に開削された多摩川左岸の六郷用水がそのほとんどが埋められて無くなっていることを比較するとその歴史的価値は高いものがあると言えます。2011年(平成23年)3月はニヶ領用水が竣工して400年にあたることから川崎市ではその記念イベントを2年間にわたり展開してきました。このように市民から愛されている士木遺産とも言えるニヶ領用水を日本土木学会の選奨士木遺産に相応しいものとして推薦します。
- 7.管理書連絡先:
- 〒 210-8577 川崎市川崎区宮本町l
川崎市建設緑政局計画部企画課
TEL:044-200-2706
FAX:044-200-3973
- ニヶ領用水について
- ニヶ領用水は正式には稲毛川崎ニヶ領用水と称し、多摩川流域において最古で最大の農業用水で、江戸時代に現在の川崎市が稲毛領と川崎領に分かれており、その2つの領地を流れる用水であるためニヶ領用水と言われています。また、多摩川左岸の世田谷区及び大田区には六郷用水として同時に開削されましたが、現在はその多くは都市化により埋め立てられその姿は残されていません。
ニヶ領用水は、平成23年3月に工事が竣工して400年となり、ニヶ領用水竣工400年を記念する様々なイベントを開催いたしました。
ニヶ領用水は、1590年(天正18年)に関東六ケ国に転封になった徳川家康が江戸近郊の治水と新田開発のため、用水奉行・小泉次大夫に命じて稲毛から川崎に至る農業用水として開削されました。また、小泉次大夫は多摩川左岸でも六郷用水を同時に開削しています。
ニヶ領用水は1611年(慶長16年)に完成しました。これにより橘樹郡北部(稲毛領37ヶ村・川崎領23ヶ村、約二千町歩)の広範にわたって水路が巡らされ、この地域ではニヶ領用水により潤されて新田開発が進み、「稲毛米」と呼ばれる上質な米を産しました。
そして、江戸中期に荒れたニヶ領用水を1794年(享保9年)に田中丘隅(たなかきゅうぐ)が全面改修を行いました。
このような中で、1821年(文政4年)7月6日には、この年の夏は渇水となり、当用水下流・大師河原の農民が中流・溝口の丸屋を襲撃した事件として「溝口水騒動」が起こりました。二ヶ領用水が運ぶ水は当時盛んであった稲作にとって生命線であり、このような水にまつわる大小さまざまな騒動が起きていました。
明治に入り1871年(明治4年)ニヶ領用水からの取水を目的に横浜水道会社が設立され、施設敷設工事が開始されました。当組合は当初は民間で設立されたが、後に神奈川県へと引き継がれ、1877年(明治10年)に竣工しました。後に事業を引き継ぐ横浜水道が道志川からの取水を始める1887年(明治20年)まで、水道原水をニヶ領用水から取水していました。
1893年(明治26年)に主に東京市の水源確保を目的として、多摩三郡(南多摩郡、北多摩郡、西多摩郡)が神奈川県から東京府に移管されました。以降、水にまつわる両者間の紛争が度々起こることとなります。
1898年(明治31年)に稲毛川崎ニヶ領普通水利組合、大師河原村外4ヶ町村普通水利組合が設立されました。
1927年(昭和2年)に神奈川県が、ニヶ領用水および周辺河川を再整備する「多摩川右岸農業用水利改良事業」を計画しました。
1933年(昭和8年)に東京府が小河内ダム建設計画を発表しました。多摩川下流部で取水している神奈川県は反対し、協議が重ねられました。結果、ダム建設と引き替えにダムからの流下量が保証され、ニヶ領用水の取水量が上積み確保されることとなりました。また補償金が支払われ、ニヶ領用水および三沢川・五反田川・平瀬川の改修費に充てられることとなりました。
1936年(昭和11年)2月1日に「多摩川砂利採掘取締方法」により、二子橋より下流の多摩川での砂利採掘が全面禁止となりました。東京都心部でのコンクリート需要の高まりに伴い多摩川の砂利が大量に掘り出された結果、多摩川の水位が大幅に下がり、ニヶ領用水などでの取水が難しくなるとともに、潮位によっては塩分が逆流して農業用水に致命的な影響を与えることもあったといいます。そうした被害を防ぐため、取水堰の建設が計画されるようになりました。
同時期に多摩川右岸農業水利改良工事が計画され、昭和15年2月、平賀栄治がその所長となりました。平賀栄治は、当時暗礁に乗り上げていた事業に対して、早速現地視察を行い、最も難工事が予想される上河原堰の改修に取りかかり、多摩川の伏流水などを調査した上で、「浮き堰堤」または「透過堰堤」と呼ばれる構造の堰を設計し、昭和16年6月に工事に着手しました。上河原堰は1945年完成しました。しかし、1954年(昭和29年)の台風被災により流失しその後再建されています。次に多摩川の支流の平瀬川と三沢川の改修工事に取り組み、大雨が降るとニヶ領用水に流れ込み洪水を引き起こしていた二河川をニヶ領用水から切り離し多摩川に流れるようにしました。その中で「ニヶ領用水円筒分水」が完成します。この「ニヶ領用水円筒分水」は、平成10年6月に登録有形文化財として指定されました。宿河原堰の改修は戦争の影響もあり、セメントなどの資材が不足して困難を極めましたが、それらを克服して昭和24年6月に約12年の歳月をかけて事業は完成しました。現在のニヶ領用水の形はその事業により作られたものです。
一方、1939年(昭和14年)には日本で最初の工業用水道が竣工し、当用水から取水を始め、日本鋼管(当時)などへ配水されました。この工業用水道は1949年(昭和49年)4月にニヶ領用水の水質悪化のため平間浄水場からの取水が中止となり、現在は農業用水と調整を取りながら稲田取水場から取水を行っております。
1974年(昭和49年)9月1日に台風16号による被災では、宿河原堰によって流下を妨げられた水が迂回して左岸の堤防を破る被害が発生する狛江水害が発生しました。これにより狛江市内の家屋十数軒が流失しました。
1999年(平成11年)に狛江水害の原因を除くために宿河原堰が改築されました。堰には狛江水害を教訓にした対策に加え、アユ等の遡上阻害を解消するための魚道設置などが行われています。以降、上流へ遡上するアユが増加しました。
2011年(平成23年)3月1日には竣工から400年を迎える事を記念して、約2年間にわたり市民と川崎市で各種イベントの実施、さらに散策用のマップや歴史や変遷についてまとめた知絵図を作成しました。
農地の減少に伴い、農業用水としての役割は小さくなってきていますが、現在でも工業用水として利用され川崎の産業を支えるとともに貴重な水辺空間として市民に親しまれています。また、ニヶ領用水のマスタープランである「ニヶ領用水総合基本計画」の改定作業を現在実施しており、川崎を支えてきた歴史あるこの用水の保全やさらなる活用について計画に定めていく予定です。
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