親不知旧道は、天下の険、如砥如矢、交通の難所など、様々な言葉で 言い表されており、明治11年の明治天皇北陸地方御巡幸の際に、危険の伴う海岸沿いの道を避け、山道を遠回りして通行しなければならなかったことが地元住民の間に深い憤りを感じさせ、新道開通運動が大いに盛り上がった。
ついにはその努力が実り明治13年の新潟県議会で決議され、明治15年5月に着工し、翌16年12月に親不知国道が開通した。
この開通によって人々の往来は激しくなり、それに伴って人力車は急増し、旅籠、飲食店、諸品の小売店なども増え、この地方一帯の村々に多大な利益をもたらすに至った。
その後昭和8年から7年の歳月をかけて、内務省国土局による国道11号線親不知改良事業によって青海〜市振間が開通された。
親不知旧道には、その時の記念として、国道(今は市道)より5m上の一枚岩に「如砥如矢(とのごとしやのごとし)とのごとしやのごとし如砥如矢」と1m四方の大文字が刻み込まれている。
出典は中国の「たいらかなること砥の如く、はやきこと矢の如し」という新道をたたえた文からとったと言われており、当時の人々がこの開通をいかに喜んだか、その程を今でも知ることができる。
この旧道から崖下の海岸をのぞき見ると波が打ち寄せる浜が見える。これが昔の北陸道であり、国道ができるまでは旅人は波間をぬって命がけでここを通行した。
|