明治40年に山梨県を襲った大水害は1日で日川村を砂礫の地と化し交通路を寸断しました。県は日川の河道を拡幅し両側に護岸堤・雁行堤(霞堤)を築きましたが、明治43年の災害で瞬時に流失してしまいました。広瀬鶴五郎は「日川は河床勾配が急なので山地崩壊による土石流が発生する。これを食い止めるためには、上流部に土砂止めを設けること、下流部の両岸は護岸堤ではなく切々の堰堤と河道に直行する水制工を設けることが有効である」と唱え、この意見が取り入れられて明治44年に日川水制工が着工されました。長さ20m程度の水制が河川両岸に74基設置された大規模なものです。土砂で埋められた水制の間は現在、ぶどう畑として利用され、完成当時の水制基部の一部をぶどう畑の中に見ることができます。
日川水制の完成を待った大正4年、上流部で河床勾配を緩やかにして土砂を止めるために、赤木正雄の計画による勝沼堰堤が着工しました。湾曲して流下していた河川右岸(上流から下流方向を見て右側)の祇園淵と呼ばれた蛇行点を堰堤で締め切り、左岸の岩盤を堤体に利用したもので、一見自然の滝のように見えます。締め切りの堤体部分はぶどう畑の下に隠れていましたが平成11年から発掘が行われ、現在では巨大な砂防堰堤の全容を見ることができます。
これらの工事は、明治時代の石積み砂防堰堤に変わるコンクリート砂防堰堤建設技術の完成に貢献し、さらに堤防だけでは困難であった扇状地の治水に砂防技術が有効であることを証明しました。この工事の完成以降、日川の大規模災害は治まって集落・農地は安定し、河川災害に起因する交通路寸断も無くなり日川周辺は、水はけの良い砂礫地を活かしてぶどうの生産地として発展していきました。
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