明治18年、政府は東京と京都を結ぶ幹線鉄道として中山道線を計画し、これに繋がる建設資材路に当たる路線として上田−直江津間の建設を決定した。後に幹線は中山道線から東海道線に変更となったが、同区間は東京と日本海側を結ぶ路線として建設が続行され、現在の信越本線の一部となった。
このうち、関山−浅野間の信越国境越えは、活火山妙高山や黒姫山の山麓を横切るため、 急勾配と急曲線が連続する難路で、中でも大田切川通水道の工事は最大の難所であった。
妙高山麓に谷を刻み、一級河川関川に流れ込む支流の一つである大田切川を線路が横断する。この深い谷底を超えて線路を通すに当たり、当時はまだ橋梁が高価な輸入品だったことから、これに代わって築造されたのが、大田切川通水道(正式名:太田切橋りょう)である。
太田切橋りょうは、幅7.6m、高さ7.8m、延長95m、上部アーチ部は煉瓦巻き、垂直側壁部と底部アーチ部は石造である。深い谷底に築造したこの通水道の上に、高さ36m、長さ80mの盛土を行い、これを基面として線路を敷いた。盛土量は30万m3にもなる。
通水道には2〜3尺の石1万8千個が使われ、主要な石は直江津港から陸揚げし、列車で運んだ。通水道の流下能力は773m3/s、安全度を考慮すると553m3/s、時間雨量277oに相当する。通水道の内径規模は、村の古老の進言により、設計当初の1.6倍の規模に変更した経緯を持つ。大正3年の大田切土石流災害では土砂や流木で通水道が埋まり、線路築堤まで水位が上昇、決壊寸前になったが、水圧で流木が流れ、鉄道線路が守られた。
石工など人力のみで築かれた明治の貴重な建造物であり、大正3年の土石流、100年後の平成7年7.11大水害にも耐え現存し、緑深い大田切の谷底で今日も乗客を見守っている。