- 1.名 称:
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わたらせけいこくてつどうかんれんしせつぐん |
わたらせ渓谷鐵道関連施設群 |
- 2.完成年:
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- ①第二渡良瀬川橋梁 1912(大正元)年
- ②第一松木川橋梁 1914(大正3)年
- ③小黒川橋梁 1912(大正元)年
- ④小中川橋梁 1912(大正元)年
- ⑤手振山架樋 1930(昭和5)年
- ⑥第一神梅トンネル 1912(大正元)年
- ⑦第二神梅トンネル 1912(大正元)年
- ⑧笠松トンネル 1912(大正元)年
- ⑨(旧)琴平トンネル 1912(大正元)年
- ⑩足尾駅本屋 1912(大正元)年
- ⑪大間々駅本屋 1912(大正元)年
- ⑫上神梅駅本屋 1912(大正元)年
- ⑬神戸駅本屋 1912(大正元)年
- ⑭旧スイッチバック遺構 1914(大正3)年
- 3.形式等:
- 【橋梁】(4施設)
- ①第二渡良瀬川橋梁:2800選 Bランク
渡良瀬川に架かる橋長104.85m、単線仕様のトラス2連桁+プレートガーダー1連の鋼製橋梁。トラス桁は下弦材にアイバーを用い、部材接合にピン結合を使用した150ftのいわゆるクーパー型トラス。国産であることが明らかなクーパー型として貴重。東京石川島造船所製造。(プレートガーダー部は撤去されボックスカルバートに改造)
- ②第一松木川橋梁:2800選 Bランク
渡良瀬川に架かる橋長56.45m、単線仕様の鋼製3連桁橋で、桁はプレートガーダー。橋脚は頂部まで丁寧に石貼した石積躯体に、イギリス製の錬鉄トレッスル橋脚を載せる特殊な造り。トレッスル橋脚は他路線からの移設(パテント・シャフト・アンドアクスルトリー社.1888年製造)であり、上路式プレートガーダーは汽車製造合資会社製造。
- ③小黒川橋梁:
小黒川が渡良瀬川に合流する地点に架かる橋長54m、単線仕様の鋼製3連桁橋で、桁長、桁高の異なる70ft、60ft、30ftのプレートガーダーからなる。中洲に建つ橋脚の間隔に対応して各桁長に変化をつける独特の造り。垂直補剛材の端部がJの形に曲げられており、ロの字型ブラケットも現存するポーナル型のプレートガーダー形式。汽車製造合資会社製造。
- ④小中川橋梁:
小中川が渡良瀬川水に合流する地点に架かる橋長40m、単線仕様の鋼製2連桁橋で、桁はDORMANLONG社製の鋼材を用いた60ftのプレートガーダー。
橋台及び紡錘形平面の橋脚は、精緻な花崗岩布積。汽車製造合資会社製造。
- 【トンネル・架樋】(5施設)
- ⑤手振山架樋
急峻な地形を走る鉄道の安全を守るための覆蓋施設で、急な崖を下る雨水や土砂を渡良瀬川に落とすために造られた延長14.3mのコンクリート製の樋を古レールを利用した支柱(鉄骨構造)で支えている。
- ⑥第一神梅トンネル
延長166m、単線仕様の隧道。坑口は馬蹄形断面の煉瓦4枚厚で、覆工はアーチ部を煉瓦積とし、腰部では煉瓦積と切石積を併用する。連続的に築かれた第二・三トンネルとともに渓谷の歴史的景観を構成する。
- ⑦第二神梅トンネル
延長27m、単線仕様の直線状の隧道で、覆工は全体を煉瓦積で築く。坑口は煉 瓦4枚厚で江戸切仕上げの要石を用い、坑門は南北で積み方の異なる石積となっている。
- ⑧笠松トンネル
緩やかに湾曲する延長362m、単線仕様のトンネルで、断面は単心円アーチを用いた馬蹄形とする。側壁を石積、アーチ部を4枚厚の煉瓦積等で築き、内部には6ヵ所の退避所を設ける。
- ⑨(旧)琴平トンネル
草木ダムの建設に伴う付替により廃線敷となった線路跡が遊歩道として整備されている。延長59mの単線仕様のトンネルの中を歩くことができ、当時の土木施設を間近に見、直接触れることのできる貴重な遺産。トンネルの先には高さ30mの玉石積みも見られる。
- 【駅舎】(4施設)
- ⑩足尾駅本屋
桁行20m梁間6.4m、木造平屋建、外装下見板張及び真壁造とし、東半を待合室、西半を事務室にあて、本屋北側にプラットホームを設ける。足尾鉱業所の中心地に所在し、沿線で最大級規模の駅舎。
- ⑪大間々駅本屋
木造平屋建。南北棟の切妻造セメント瓦葺の主棟に、直交する切妻屋根を架け、正面玄関とする。外壁は白色モルタル仕上げ。簡明な駅舎建築。
- ⑫上神梅駅本屋
桁行7間、南半を梁間3間の事務室、北半を梁間2間の待合室とした木造平屋建で、東・西・北面に1間幅の庇をめぐらす。鉱業で繁栄した往時の姿を今に伝える。
- ⑬神戸駅本屋
桁行13m梁間3.7mの木造平屋建、東西棟の切妻造セメント瓦葺。ポイント切替装置を置く梃子上屋を西方に付属、当初の規格駅舎が基本的に残り、時代の雰囲気を伝える。
- 【その他】(1施設)
- ⑭旧スイッチバック遺構
間藤駅は現在、わたらせ渓谷鐵道の終着駅であるが、開業当時は旅客駅の最終駅であり、貨物最終駅はその先の足尾本山駅であった。足尾本山駅へ向かう急勾配途中に駅設置となったため、通過可能型スイッチバック式停車場であった。1970(昭和45)年、施設廃止とともに、駅構内の改良が実施されスイッチバック構造のレールは見られなくなったが、引上線(加速線)を設置した擁壁が残り、現レールと並行して走る様子が当時の雰囲気を伝える。
- 4.推薦理由:
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足尾銅山は、江戸期に幕府直轄の鉱山として、その後、明治期以降には政府の推し進める富国強兵政策を背景に採鉱技術の進展とも相俟って急速に発展した。1884年には国内産銅量の26%を占める等わが国有数の銅山に成長するとともに、生糸・絹製品に次ぐ主要輸出品となった。産銅量の増大に伴い、その輸送の根幹を担ったのが足尾鉄道である。
わたらせ渓谷鐵道は、足尾鉄道をその前身として、国鉄足尾線・JR足尾線を経て、1989年から現行の経営・運行形態となった。この第三セクターわたらせ渓谷鐵道は、地元自治体(出資:群馬県、群馬県みどり市、同桐生市、栃木県日光市)と市民に支えられ営業が継続されている。特に、市民による沿線の景観保持や各種企画事業への協力等その活動取り組みは、鉄道を媒体とした地域の維持および地域コミュニティーの形成・発展に大きく寄与している。
今回選奨遺産に推薦する施設は、開業当初からの施設で大きな改築が行われていない橋梁・トンネル等の土木構造物、および鉄道施設のうち利用者に最も馴染のある施設である駅舎併せて14施設である。これらの構成施設は、わが国の鉄道草創期の風情を今に伝える鉄道関連施設であり、『2800選』および国登録として評価されている施設、また国登録以外の施設にあっては開業当初の雰囲気を伝えるとともに一定の評価ができる歴史遺産である。さらに、その存続・維持への取り組みをとおして、地域コミュニティーの形成と地域への愛着心の醸成におおきく関わる文化遺産でもある。今回の選奨が、当該鉄道を媒体とした地域コミュニティーおよび地域交流機会のさらなる増幅に結び付く契機になるものと考えている。
なお、足尾銅山の歴史、足尾鉄道から現在までの経緯等について、参考資料としてその概要を添付したので参照されたい。
- ≪参考資料≫
- ①銅の歴史と産業革命
足尾銅山は、戦国時代には既に銅が発見され、江戸時代に幕府直轄の鉱山として栄えたが、銅需要の大部分は江戸時代より輸出用であり、外貨獲得のための主要輸出品であった。
また銅は、産業革命(18世紀中頃)以前は、主に装飾品、美術品などに利用されていたが、産業革命後、世界中に経済的・社会的変革が広がると、産は全く新しい一層高度の重工業品業界に供給される原材料へと変化した。18世紀末には、世界の銅地金のほとんど全量が英国で製錬されるほどになり、また、19世紀の初めに到来する電気時代には、発電(モーター)と送電(電線)の両面、さらに通信・電話面から銅が急速に普及し銅の需要が増大し、産銅業の社会性が急速に拡大していく。
- ②足尾銅山と明治政府の富国強兵政策
そんな中、足尾銅山は、幕末から明治初期にかけて、採掘量の極度の減少により閉山状態であったが、1877(明治10)年、古河市兵衛氏が足尾銅山の経営に着手、探鉱技術の進歩により有望鉱脈が発見され、1877(明治10) 年の年間生産量はわずかに47トンだったが、10年後には3千トン(約70倍)を超え、その5年後にはさらに倍増する勢いとなる。
1884(明治17)年には早くも国内産銅量の26%を占め、国内一の銅山になる。明治政府の富国強兵政策を背景に、足尾鉱山の経営は急速な発展を遂げ、日本国内の銅生産量の40%程度を占めるまでに成長し、1905(明治38)年、個人経営から会社組織:古河鉱業会社(古河機械金属(株)の前身)となる。
日本の主要輸出品となった銅は、生糸・絹製品に次ぐ第二の輸出品の地位を確立し、日本の総輸出額に占める割合は1890(明治23)年には9.5%を占め、世界有数(世界市場の5%)の産銅国として日本の銅は世界市場に直結し、日本資本主義発展の不可欠な役割を担った。その銅生産の主力をなしたのが足尾銅山であった。
- ③輸送システムの変遷と旧足尾鉄道
群馬県側からの鉄道敷設について、1887(明治20)年の両毛鉄道(大間々(現「岩宿駅」)〜足尾間)の申請以降、複数回申請されるが、いずれも却下あるいは立ち切れとなっている。
栃木県日光側からは1890(明治23)年に日光線(宇都宮〜日光)が開設、峠に鉄索も敷設、1893(明治26)年開通の馬車鉄道と索道で足尾と日光駅が結ばれ、内外輸送の幹線となる。
1902(明治35)年、ようやく足尾までの鉄道の敷設に向け、産銅量の増加に伴う輸送力の増強を目的に足尾鉱山鉄道(株)が設立(後に足尾鉄道(株)と改名)され、足尾鉱山から産出される鉱石輸送のために鉄道敷設を計画。1911(明治44)年、足尾鉄道は、一部区間(桐生駅〜大間々駅間)を開業。開業区間を順次延伸しつつ、1912(大正元)年、足尾駅まで開業することとなる。
これにより足尾で生産され精錬された粗鋼は、索道による峠越に代わり鉄道(足尾線〜両毛線〜東北本線〜日光線〜日光電気鉄道)により日光精錬所に輸送されるなど、産銅工程が鉄道で結ばれるとと共に、市場である東京と鉄道で繋がることとなり、1917(大正6)年に最大の産銅量を迎えるが、鉄道の整備が物流面から大きな役割と果たした。
そして、産銅業は歴史的に、生糸などの初期特産物輸出から綿紡績品などの工業製品輸出への転換期をつなぐ最も重要な輸出品を製造する産業としての大きな役割を果たすとともに、重化学工業の発展へと繋がり、日本の発展や近代化に重要な役割を果たしてゆく。
(参考)
- 1913(大正2)年、足尾線に改称、1914(大正3)年、間藤駅まで開業。(桐生駅〜間藤駅)
- 1918(大正7)年、国有化
- 1973(昭和48)年、足尾銅山が閉山。同年、草木ダム建設に伴い神戸駅〜沢入駅間をトンネル経由新線に付替。
- 1987(昭和62)年、国鉄民営化。
- ④第三セクターわたらせ渓谷鐵道と市民運動
1989(平成元)年、JR足尾線(廃止路線)を引継ぎ、第三セクター「わたらせ渓谷鐵道」として営業開始(出資:群馬県、みどり市、桐生市、日光市)。2006(平成18)年、輸送人員が当初(年間百万人)から半減し、経営危機を迎えているわたらせ渓谷鐵道に対して、沿線で支援を続けている市民を組織化することを目的に市民、行政、わ鐵で会議を開催し、沿線住民をネットワークする組織を設立。沿線でわたらせ渓谷鐵道を支援する市民、市民グループ、企業などの団体の情報共有化を図り、相互に協力をしながら鉄道会社の支援が今も続けられている。
- 【取組事例】
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- 沿線の景観保持、改善のための支障木・竹の伐採や車両の清掃活動
- 各駅イルミネーション事業への参加 など
- 【会員数】
- 約200人(うち団体 約10団体)(個人会費1,000円、団体会費2,000円)
- 5.所在地:
- 群馬県(みどり市、桐生市)及び栃木県(日光市)
- 6.管理者:
- わたらせ渓谷鐵道(株)
- 7.特記事項:
- わたらせ渓谷鐵道関連38施設が国の登録有形文化財