1923(大正12)年の関東大震災の復興後、横浜、東京、川崎の3市の膨張と京浜工業地帯の著しい発展により、第一京浜国道(現国道15号)の交通量が激増し限界に達したため、第二京浜国道(現国道1号)の建設が1936(昭和11)年10月に着工された。
響橋は当初寺尾橋と呼ばれ、第二京浜国道建設に伴い分断される水道道の陸橋として計画された。
一方で1936(昭和11)年7月に第12回オリンピックの1940(昭和15)年、東京開催が正式に決定し、オリンピックで想定されるマラソンコースの折り返し地点にある響橋の存在が重要視された。このため、内務省土木局は設計を建築家の今井兼次氏に依頼したものと思われる。
今井氏は早稲田大学教授を務めた建築家で、東京地下鉄道(現地下鉄銀座線)の浅草・上野間の駅舎(昭和2年)などの意匠を手がけており、響橋も土木構造物でありながら、建築的な意匠が施されている。
その後、1938(昭和13)年7月に日中戦争の拡大に伴って東京オリンピックは返上され、「幻のオリンピック」となったが、鋼材等の支給制限や工事関係者の戦地招集の状況の中、響橋の工事は続行され、1941(昭和16)年3月に竣工した。
以上により、響橋は震災復興後の京浜工業地帯の発展や自動車交通の発達による道路網の拡大や都市形成史を物語るうえで重要な遺溝であるとともに、幻となった東京オリンピックの証左となる貴重な遺稿であることが伺える。
また、構造的には開腹アーチで、単一面のヴォールト面に鉛直材として隔壁を立ち上げ路面を支えており、コンクリートアーチ橋の一典型といえる。
特に意匠面では、モールディングを施してアーチを強調したアーチリングと上床版底部に連続するヴォールトが相まって軽快なデザインとなっている。また、隔壁にはスリットを、アーチの内輪にもリブを入れてコンクリートの重量感を軽減し、直線でデザインされた高欄や親柱とともに、全体に軽快かつ陰影に富んだ繊細なデザインを実現している。このため、切り通しに架かる軽快なアーチ橋として「眼鏡橋」とも呼ばれ、地域のランドマークとなっている。