1887(明治20)年代以降の釧路は、水産業、林業、製紙工場、硫黄鉱山、炭田など鉱工業が発展し、釧路川の河口に本格的な港湾を整備する構想が浮上しましたが、河口部への土砂流入が問題となりました。
1920(大正9)年には、釧路市街地の大半が水没するほどの未曾有の洪水が発生したことから、河口部への土砂流入対策、治水対策に対する地域の期待は大きく、翌1921(大正10)年、釧路川の岩保木地点から海に向け11.2kmの新水路を掘削し、市街地を流れる釧路川を上流域から切り離す工事に着手し、10年後の1931(昭和6)年に完成しました。泥炭湿地を掘削する工事には、当時最新鋭のエキスカベーターが導入され進められました。
新釧路川の完成により、周辺地盤の地下水位が低下し、泥炭地での土地利用が可能となりました。さらに、上流域から切り離され安全となった釧路川下流は、市街化が進み、新釧路川の水を利用する製紙工場などの産業も発展しました。また、釧路駅周辺は、鉄道の整備が進み、釧路港も土砂流入の問題が無くなり、市街地を流れる釧路川両岸が埠頭として利用できるようになり、釧路市は、道東の物流の拠点としても発展し、人口も増加しました。